社員食堂で目の前にいたのはスティーブ・ジョブス!―プログラミングの腕を生かして切り開いてきた“空飛ぶプログラマ”の人生

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スティーブ・ジョブスがいたころのアップル本社で働いた経験があり、飛行機のライセンスも持っている。そんな驚きの経歴を持つ野中哲さんは、今年、還暦(60歳)を迎えた、自称“空飛ぶプログラマ”。

いろいろな会社を渡り歩き、クラウドソーシングでも仕事を受ける野中さんは、とにかくプログラミングが大好きで、生涯、仕事は続けたいと笑います。

アクティブに活動する野中さんから、好きなことを仕事にして、人生をいきいきと過ごす大切さを学びました。

ジョブスのカリスマ性に圧倒された

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―自称“空飛ぶプログラマ”だそうですね。

はい(笑) 昔、アメリカで飛行機のライセンスを取りまして。

日本では、飛べる場所が少なくて、なかなか飛べていないのですが。「空飛ぶプログラマ」と言えば、みなさんに覚えてもらいやすいかな、と思って自称しています。

 

―飛行機のライセンスはいつ取られたのですか?

40歳のときですね。アメリカ・シリコンバレーにあるアップルコンピュータ(その後、アップルに改称)本社で働いていたとき、プライベートで取りました。

―空を飛ぶことに憧れがあったとか?

いえ、特に…。小学校の卒業文集には「パイロットになりたい」と書いていたのですが、すっかり忘れていたぐらいです。

ただアメリカだと、飛行機のライセンスを持っている同僚が普通にいるし、空を飛ぶこと自体が身近なんですよね。ちょっと近くの飛行場を見に行ったら、すぐに体験搭乗をさせてくれるし。それで自分でも挑戦してみようかと思って取得しました。

―アメリカに行くまでは、どのようなお仕事をされていたんですか。

22歳で大学を卒業してからはNECに勤め、衛星通信の制御用ソフトを開発していました。ただ、もともと一つの会社で一生を終える気持ちはなかったし、いつかはアメリカで仕事をしたい、という夢を持っていて…。

それで8年ぐらい働いた後、アップルコンピュータ(その後、アップルに改称)の日本法人に転職したんです。

―そうだったんですね。

アップルの日本法人では、オペレーティングシステムの日本語版「漢字Talk」の開発などを担当していました。アメリカへ行くためのステップとして転職したわけですが、なかなかチャンスがなくて、結局、7年ぐらい渡米できないまま。

38歳になって、やっと条件に合う仕事が見つかったので、1997年、日本法人を辞めてアメリカのアップルコンピュータ本社へ転職しました。

 

―当時のアップルは、どういう感じだったんでしょう?

10年ほど会社を離れていたスティーブ・ジョブスが復帰したばかりでした。

それまで会社自体は調子が良くなくて、いつSONYに買収されるかどうか、というような低迷期。それなのに、ジョブスが戻ってきただけで、こんなにも会社って変わるのか、と思うほど雰囲気が良くなって。

やっぱり、絶対的なカリスマ性があったんですよね。

その後、98年には、コロンとしたデザインで、“おむすび”みたいな「iMac」を市場に投入。会社としては再び勢いづいていくような時期でした。

最近の若い人には、「iMac」と言っても分からないかな(笑)

―ジョブスにお会いしたことはあったんですか?

直接、しゃべったことはありませんが、社内ではよく見かけました。社員食堂で私の前に並んでいたこともあります。

 

―ジョブスと同じ会社で仕事をしていて、印象に残っていることはありますか?

ジョブスが復帰してすぐ、講堂みたいなところに社員が集まり、コミュニケーション・ミーティングをしたんです。その席で「まず何をするか」という話になったんですが、ジョブスは「社員食堂がひどいから直そう」って。

その1週間後には社員食堂が本当に改装され、ケータリングの業者も入れ替わっていました。これは一つのエピソードですけれど、こうだと思ったことは、スピーディーに次々、実現させていく人なんだと驚きましたね。

 

―ジョブスのもとで働いていたなんて、うらやましいです。アップルで働いた日々を振り返ってみて、どうですか。

ものすごく緊張感のある日々でした。言ってみれば、プロ野球選手みたいな感じで、毎年契約の更新があるので、仕事ができない・成果が出せない、となれば会社にいられなくなるんです。

成果をあげなければいけないので、お客さんからのクレームにも丁寧に対応し、より良い商品を作ることに真摯に向き合いました。

日本でエンジニアをしていたころに比べて、ものすごく謙虚になりましたね。

クラウドソーシングで海外とリモートワーク

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―本当に貴重な経験ですね。でも3年でご帰国されたとか。

自分としてはアメリカへは“片道切符”で行きたかったんです。でも家族を帯同できなかったので、3年ほど単身赴任をしたのちに帰国しました。

飛行機のライセンスも取ったことだし、もう少しアメリカにいて、毎週末、飛び回るようなこともしたかったんですがね。

 

―帰国してからはまた日本のアップルに?

いえ、アップルではMacOSの日本語版を作る、ローカリゼーションの仕事しかなくて。あまり興味のわかない仕事だったので、ほかの会社に転職しました。 その後は、いろいろな会社を渡り歩きましたね。

ICカードに組み込むソフトウェアや、リナックスベースのソフトウェア、WEBのアプリケーションなど、さまざまな開発に携わりました。

ある会社の取締役を引き受けたこともあったんですが、管理職より、やっぱり自分の手を動かしてプログラムを作っている方が好きなんですよね。

 

―今はフリーランスと言う立場で仕事をされているんですよね?

はい、4年前に独立しました。業界に知り合いはたくさんいるので、仕事を紹介してもらうことも多くて。あと、クラウドソーシングの利用も始めてみました。

―クラウドソーシングで受けた初めての仕事はどういうものでしたか?

シリコンバレーのスタートアップからの依頼で、日本市場におけるウェブサービスの技術サポートを担当しました。

アメリカのオフィスとはSlackで連絡を取り合いながら、ハングアウトで週1回はミーティングをして。それまでは、お客さんのところに行ってやる仕事が多くて、リモートワークはこのときが初めてでした。

―初めての海外とのリモートワークはいかがでしたか。

意外にやれるんだな、という感じはしました。

でも、Slackを使い始めたときは慣れるまで大変で。連絡を取り合っている間、席を外していいかが分からなくて、トイレにも行けない。ご飯も食べられない。冗談ではなく、死ぬかと思いました…。

今はペースがつかめるようになって、全然大丈夫ですけれど。

定年という概念はない

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―シニア層でプログラマのクラウドワーカーは少ないようです。

そうなんですか。同世代の仲間うちには、同じような仕事をしている人がいるので、あまりそういう感じはしないんですが。

私の経験では、IT業界の、いわゆるSIer(エスアイアー:システムインテグレーター)で派遣の仕事は、この年齢ではないですね。

でもクラウドソーシングだと応募してオファーをいただけるチャンスはあります。 私の場合は、シリコンバレーの経験などこれまでの実績と、TOEIC 925点といったように英語が多少できる、という点でお声がけをいただいています。

やはり、これまでの積み重ねは大きいと思いますね。

 

―今年、還暦(60歳)を迎えられた、ということですが、会社員のように定年などは意識されていないんですよね。

はい。もともと大企業で定年を迎えて、退職金をもらって…、という人生を歩んできたわけではないので、定年という概念はないです。

やっぱり、この仕事が好きですし、いつまでも働いていたい、という気持ちはあります。 ただ、やはりそれなりにいい歳なんで、体力勝負みたいな仕事だと、若いエンジニアと勝負するのはつらい、と思うことはありますよ。

小さい字が見えにくくなって、エディターのフォントがどんどん大きくなっていますし(笑)

でもいまだに仕事をしていて、面白いという境地にさしかかると、2時間、3時間はあっという間で夢中でやっています。

それぐらい仕事をするのを苦に思ったことはないので、これからも元気なうちは仕事を続けていきたいですね。

 

―実績が評価される、という点は、クラウドソーシングで仕事をする良さですよね。ほかに何かメリットを感じたことはありますか?

昔は考えてもいなかったのですが、親の介護という問題があるんですよ。私の場合も、88歳になる母親の介護が、だんだん大変になってきて。

今日も実家に行ってきたのですが、時間や場所の融通がきくクラウドソーシングの仕事には随分と助けられています。ネットにさえつながっていれば、どこにいても仕事ができるって、本当にありがたいですね。思わぬ副産物でした。

 

―逆にクラウドソーシングで仕事をするとき、戸惑ったことはありますか?

開発は、仕様がほぼ決まってから仕事をするのは楽なんです。

でも仕様をどうするか方針を決めて、基本設計をしていくフェーズからリモートで合意をとっていくのは難しい。やっぱりメンバーで顔を合わせ、ああだ、こうだと議論しながら、ホワイトボードに図を書いていく方が早いし、効率がいいんですよ。

 

―そういうとき、リモートで仕事をする工夫とか、気を付けていることはありますか。

仕事相手と誤解が生じないように気を遣っています。ホワイトボードを囲んで話し合いができない分、紙に書いた図を写真に撮ってアップしたり、モックアップ(模型)を作って見せたり、事細かに確認をします。これは、くどいぐらいやりますね。

意識違いが起こってしまうと、お互いに不幸なので…。

あとは、やりとりや指示の内容についても記録を取るようにしています。

後から、こんなこと言っていない、というようなことにならないよう、ある意味、自分を守る手段でもありますね。

エバンジェリストとしての役目も果たしたい

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―ご趣味もプログラミング、という感じなんですよね。野中さんが作られた、和歌を詠む?サイトをチラッと拝見しました。

「はなもげら短歌」のことを言ってますか? 「はなもげら」って分かりますか? タモリの芸で、でたらめな言葉をしゃべっているんだけど、それっぽく外国語みたいに聞こえるっていう…。

 

―今度、調べてみます…。

簡単に言えば、百人一首っぽい短歌を、自動で作るプログラムです。

百人一首のデータを解析して統計情報をまとめ、その結果をもとに、ランダムに、はなもげら文字列を発生させます。

まあ、お遊びのプログラムなんですけれど、いろいろなソフトウェアのコミュニティやコンファレンスでライトニングトークをするとき、ネタに使っています。

 

―プログラミングは仕事、趣味の区別はない、という感じなんですね。

あいまいですね。仕事とプライベートの境界は、はっきりしていません。かなりファジーですね。

 

―競馬のデータ分析、などもされているとお聞きしたんですが。

よくご存じですね。実は全然、自分では競馬に興味はなくて、馬券も買ったことがないんです。ただ、データがたくさんあって、結果が分かりやすい、ということで競馬の予想システムを仲間と作りました。

今みたいに、ビックデータが注目されるより、ずっと前のことです。

 

―今はデータサイエンティストの人手不足が問題化していますが、先がけて統計に取り組まれていたんですね。

そうなりますね。今も、どちらかというと自分の勉強のために開発を続けています。

競馬のデータ分析についても、ライトニングトークで話したり、facebookで発表したり。

まだまだ統計を分かっている人は少ないので、データアナリストとしての仕事もできるようになりたい。まあ、あわよくば、馬券を当ててお小遣い稼ぎしたい、という気持ちも無きにしもあらず…ですけれどね。

―人前でお話をされる機会もよくあるんですね。

自分には日本のマーケットに対して、技術やサービスについて説明し、新しい使い方を提案していくミッションもあると思っています。

そのため、いろいろなコンファレンスやコミュニティに出かけて行って、話をするのも仕事の一つ。そのため、“エバンジェリスト”(伝道者の意味)”としての役割も大事にしています。技術的な話をするのは好きなので、楽しんでやっていますよ。

 

―これからの夢や目標があれば教えてください。

データ分析の仕事はもっと広げていきたいですね。趣味でラグビー観戦も楽しんでいるので、データが手に入るなら試合の分析をしてみたいです。

あと、“空飛ぶプログラマ”を名乗っていますが、これまで同じような人に出会えたことがないんですよ(笑) そういう方がいたら、ぜひお友達になって話をしたいですね。

取材・文:吉岡名保恵

野中 哲
NECで衛星通信の制御用ソフト開発、アップルでMacOSのローカリゼーション、Apple Shareファイルサーバの開発などに従事。プライベートではラグビー観戦、セーリング(ヨット)を楽しむかたわら、プログラミングも趣味で楽しんでいる。FAA自家用パイロットライセンスを所有し、“空飛ぶプログラマ”を自称している。