個人 / 男性 / 70代前半 ( 岐阜県 )
最終アクセス: 5年弱前
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はじめまして。まず自己紹介させてください。私は、工業高校出て、カメラ会社に入って、途中から大学に通うようになって、30代半ばに南米に渡って、居心地が良かったので、そのまま3年間もウルグアイに居つきました。何故南米に渡ったかって? 結婚のためです。 元よりアウトサイダーの生き方しかできないことから、日本での結婚は諦めていましたからね。 しかし南米にいくまでは資金調達のための5年間がありました。 チリ紙交換、トマト農家の手伝い、土方仕事、といろいろやりましたが、いちばんカネになったのは、自動車会社の組み立てラインの仕事。若い連中と速さを競い合って仕事したときは、汗もかいたし、帰りは疲れ切っていたが結構充実した毎日だった。 第一上司が良かった。いつも俺の傍に来ては褒めてくれた。俺も単純だから褒められると更にやる気がした。 それから、やはり付け加えるべきは稼ぎが良かったことだろう。稼ぎが良いと目標が持てる。貯金がみるみる増えていくと、自ずと節約を心がけるようになる。この好循環が日々の生活に充実感をもたらす。そして自動車工場の組み立てラインのような仕事も苦にならなくなる。自分を曝け出して歳も忘れ、周囲の若い連中とも溶け合って日々が楽しくすら感じるようになる。そこでの3年は夢に向かって動いたかけがえのない日々となった。
外国で長く生活していると望郷の念がもたげてくる。その時一番思い出すのは幼い日々の事や苦労した日々の事。走馬灯のように脳裏をよぎるもの。 異国の地で溶け込んで生活するためにも、思い出は時として生活の妨げになる。それで追憶の淵にあるものを出し切るという意味で、思い出すままに文章に残すことにした。 書き始めると出るは出るはでノート数冊分になった。 このままでは面白くないから挿絵も入れた。絵は得意だから。そうして思い出を出し切ると異国の生活も風景も身近なものと変わっていた。帰国して既に30年。今またその時感じた空気を求めて、再び南米にあこがれるこの頃でもあり、その気持ちが生きる事への力にもなっている。いつの時代も糧となる夢を持ち続ける事は精神を若返らせる。生き方をも変える力になる。そのことを読者に伝えたい。
岐阜県下呂市
岐阜工業高等学校