個人 / 男性 / 60代後半 ( 大阪府 )
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はじめまして、私は、1956年8月25日生まれの62歳です。
私の人生は本当に波乱万丈でした。3歳から小学校入学までは親戚中をタライ回しにされて育ちました。生まれは大阪ですが、父の事業の失敗で借金をした親戚に預けられ所謂借金の担保代わりに鹿児島、和歌山、福井、岐阜の親戚を転々とし毎食事ごとに大人の顔色を窺いながらいつしか拒食症で生死をさまよったこともございます。小学校3年生から新聞配達を始め小学校5年生からは朝刊を配り終えたあとに更に牛乳配達をし両親を支えながら中学校卒業まで続けました。そんな貧困生活ですので当然中学校を出て15歳で宮大工の奉公に精進しました。勉強したい!との一念から次年度からは大阪府立今宮工業高校の定時制過程に進みました。そこからが私の勤労学生の始まりでした。やがて大阪工業大学Ⅱ部の建築学科を卒業し同年同大学の短期大学部Ⅱ部の土木工学科に編入し何とか卒業し測量士補を取得しました。仕事の方では宮大工を辞め、鉄工所、設計事務所、現場監督と様々な建築全般を体で覚え、やがて起業家として成功したかのように思ってたとても生意気な人間になっておりました。わずか19歳で多くの社員から社長と呼ばれ有頂天になってた私は当然の如く、信頼してた人に裏切られ事業に失敗し22歳にして2億円の負債を抱え失望と絶望の淵に立たされホームレスを2回も経験しました。その後ある人に助けられ死にもの狂いで働き、その借金も3年間で返済いたしました。枚方市には昭和57年に中途採用で26歳で入庁しました。役所の直前の職場は「日建学院」で設計製図と建築設備の講師をしました。紆余曲折の人生経験を通常の人の30年分位で歩むことを11年間で凝縮して覚えたって感じです。日建学院でチョークを持って教壇に立つ前は第2の倒産で押し寄せる債権者他に毎日朝から晩まで家まで押し掛けられて精神的にもかなりまいりました。でも乳飲み子の長女のミルク代もない始末でしたので、切り替えの早い私はもう次の日の朝4時に起きて新今宮のあいりん地区で日雇い人夫(土方)で日雇い労働者バスに乗り込み必死でドロだらけになりながら働いて日当6000円を握りしめて急いで粉ミルクを買って帰ったことを思い出します。昭和56年の冬は本当に極寒の冬でした。
やがて、53歳の時に龍谷大学大学院法学部に進学し、法学修士号を取得しました。現在でも後輩の論文の添削指導のお手伝いをさせていただいております。
大阪府
大阪工業大学建築学科(Ⅱ部)
龍谷大学大学院法学部
大阪府立今宮工業高校建築学科(定時制課程)